農style fileVol.18

2013.05.16 UP

home > 農style file > Vol.18  握りこぶしひとつで、豊富町に入植した久世一家の波瀾万丈物語。

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工房レティエ

握りこぶしひとつで、
豊富町に入植した久世一家の
波瀾万丈物語。

天塩郡豊富町福永。牧場や自然林が連なる一帯を抜けると、ログハウス風の小さなお店が見えてくる。「いいね!農スタイル VOL.3」の誌面にも登場した、チーズとジェラートの工房レティエである。オーナーは、久世薫嗣さん。その物静かな表情、おだやかな話しぶりからは想像できないが、実に波瀾万丈でユニークな人生を歩まれてきた方と耳にした。挨拶もそこそこにインタビューが始まった。

久世さんが兵庫県の山村から、北海道に移り住んだのは平成元年のこと。もともと食の安全性には高い関心があったが、移住の直接のきっかけとなったのは、本州の乳牛の飼育法に対する不信感だった。
「乳牛は草食動物。広い草地で放牧されて育つ牛の乳が、最も自然で健康的。しかし当時の本州では、狭い牛舎の中で輸入飼料を大量に与えながら牛を育てているケースがほとんどでした」
家族に安全な牛乳を飲ませたい。そんな思いは、いつしか北海道で乳牛を飼育したいという願いに変わった。考えぬいた末に久世さんが選んだ移住地は、酪農のまち豊富町だった。
「移住」という表現は適切ではないのかもしれない。なぜなら新天地豊富町には、だだっ広い土地があっただけ。一家の住む家や運んできた牛を飼う場は用意されていなかったのだ。
「とにかく極貧だったからね。入植した当初は、原野の真ん中に建てたテントで寝泊まりしていました。しばらくして役場で古い住宅を払い下げてもらい、それを解体して、家族で家や牛舎を建てはじめたんです」
木材運びやクギ抜き、水運びや持ち込んだ牛の世話は子どもたちの担当。自然が大好きな三人兄妹は、朝早くから夜遅くまで家づくりを手伝った。久世さんもたったひとつの道具「自分の握りこぶし」を駆使して、悪戦苦闘を続ける毎日。やがて遠巻きに見ていた地元の方が一人、また一人と手を貸してくれるようになる。地元の大工さんや工務店の方もその輪に加わってくれた。汗と涙の平成開拓物語。その年の秋、豊富町の山間に久世家念願の牛舎と家が完成した。

お話を聞いていて、ふと小さな疑問が湧き上がる。朝から晩まで手伝う子どもたち…。ん?学校は?
「当時長男が14歳、長女は11歳。ふたりとも兵庫にいた時分から学校には行ってなかったんです。理由? 山奥の集落だったので学校が遠かったこと、長男が喘息を患っていたこともそうですが、ふたりが自主的に学校へは行かないと言ったことがいちばんの理由ですね。文字や計算は本で学ぶから大丈夫、学校へは行かず自分たちも毎日家や牧場の手伝いをしたいと」
ふたりともまだ幼齢と称される年頃。一般の親ならけっして許諾しないだろう。加えて行政からの勧告や周囲の非難など、さまざまな困難も予想できたはずだ。しかし久世さんは子どもたちの申し出を、人格を持った人間の意志として受け止める。大自然に抱かれたこの農場で生きていくという決意を尊重し、この先ふたりの親として、最大の支援をするよう覚悟を決めたのである。
その最大の支援策が、手に職を付けさせること。就学しなければ、就職できないのは火を見るより明らかだったからだ。
「放牧スタイルの牧場経営は、入植前からの夢。でもそれだけでは子どもたち一人ひとりの仕事場は用意できない。子どもたちが働くと決めた日から、加工や飲食サービスなどを視野に入れた家族の将来像を少しずつ描くようになりました」
とはいえ当初は乳牛14頭、綿羊2頭、鶏9羽の極小農場。入植後数年間は、牧場の作業を子どもたちに任せ、久世さんはアルバイトに精を出す日々を続けたという。

「最北の地で牧場を経営し、それを基盤に家族それぞれが生き抜くための仕事を作る。この壮大な夢を一歩ずつ具現化していく一方、久世さんは社会貢献活動にも力を注いだ。例えば、「エベコロベツサマーキャンプ」の開催。このイベントには原生の自然に抱かれた別天地「豊富」の魅力を多くの人に知っていただくという主旨のほかに、隣町の幌延町で問題となっていた核廃棄物施設の建設について世間の目を向けさせたいという願いが込められていた。その熱い心が伝わったのだろう、キャンプには道内外より200名を超える人々が参加。ここでの出会いやそこから広がったネットワークが、以後の久世さんの大切な財産にもなっていった。
またこうした活動は、その後、日本の里親としてチェルノブイリで被曝した子どもたちを受け入れるという、久世さんの心あたたまる取り組みへとつながっていく。
「経済性と便利さだけを追求しすぎたツケが、子どもたちに回ることが耐えられない」おだやかに話す久世さんの表情が、一瞬、悔しさと悲しみで曇った。

一年ずつ一歩ずつ。牛の歩みのように地道に、だが着実に、久世さんは牧場や農場規模、牛や鶏などの飼養頭数を増やしていった。収入源は生乳のほか、牛肉、鶏卵の販売など。飼育は自然の循環を考えながら行った。牛は無為に太らせたりせず、夏は青々と茂る放牧地の草、冬は干し草と道内産の小麦やふすまを与えた。鶏は平飼いで、タマゴは有精卵だ。当初は地元で購入してもらうのが主流だったが、自然本来の味、そしてこの上ない安全性が口コミで広まり、町外や道外にも顧客が増えていった。
子どもたちも大きく成長した。長男は牧場の仕事を一手にこなすまでになった。長女は農場のほか家事も担当した。実年齢は20歳そこそこでも年季が違う。どんな仕事もてきぱきと要領よくやってのけた。次女や入植二年目に誕生した三女は、学校に通うという生き方を選んだ。もちろん久世さんは兄姉同様、その申し出を快諾した。
それぞれが、それぞれの信念で、それぞれ道を行く。けれど、家族はこの上なく温かく、この上なく頑丈な絆で結ばれている。それが入植時から貫かれた久世一家の生き方だ。

入植して10年目、久世さんのビジョンが小さな実を結ぶ。きっかけとなったのは、地元の農家や酪農家で組織したチーズづくりのネットワーク。久世さんはその中心となって、仲間たちと一緒に本格的なチーズ製造のノウハウを学んでいったのだ。原料は自分たちの牧場のとびきり新鮮な生乳。うまいチーズとなる自信はあったが、製法の奥が深い分、試練は続いた。学ぶこと丸2年。その味に自信を持った久世さんは、仲間の出資を仰ぎ、チーズ工房レティエを開業したのである。
「当初は工房を娘たちの仕事場に、という発想。でも道北で暮らして10年、酪農だけに頼っていては、この地域に豊かな未来も熟した文化も生まれてこないことに気づいたんです。酪農の次は加工、加工の次は提供というように、常に次のステップを歩むことが、地域の自立や再生の条件なんです」
家族のため、そして地域のために開業したレティエは、奥に工房、手前には飲食スペースを備えた。開業当初こそ地元の人だけが足を運ぶ隠れ家的存在だったが、次第に口コミやネットの書き込みで知った観光客が訪れるようになった。
長女はチーズづくりに腕をふるった。積み重ねた試行錯誤の分、味には絶対の自信があった。セミハードタイプ・白カビタイプ・モッツァレラとラインナップも豊富だ。次女は開業数年後にスタートしたジェラートづくりに専念した。生乳の新鮮なテイスト、口の中でふわっととける触感が好評を博し、繁忙期は品薄になることも多いという。学校を卒業した三女は、それらを提供する飲食スペースの責任者となった。愛嬌いっぱいの笑顔は常連客にも人気だ。もちろんチーズやジェラートの原料となる牛乳は、長男の牧場からしぼりたての状態で運ばれてくる。
舞台は道北の小さな店。家族の絆が動力のささやかな営みだが、この地に新たな経済活動が、そして酪農から派生した文化が生まれたのである。

久世さんの入植人生は今年で四半世紀となる。三女の娘(久世さんにとっては孫)を膝に抱くその表情は、実に幸せそうだ。
4人の子どもたちはそれぞれ、「牧場」「チーズ工房」「ジェラート工房」「カフェ」という仕事場と責任を持ち、元気に働いている。それぞれ伴侶に出会い、所帯も持ったという。近年、チーズやジェラートはインターネットでの販売も始まった。
レティエの飲食スペースももなかなかの盛況ぶりだ。そんな店内でお客様のお話相手をしたり、牧場で牛の世話したり、子どもたちの家を訪ねまわるのが、久世さんの楽しみ。もちろん、先の原発事故で被災した福島の子どもたちのケアやサポートなど、社会的活動にもまだまだ精力的だ。

長い取材の終わり、最後の質問を投げかけた。
久世さん、これから何をしたいですか? そして子どもたちにどう生きてほしいですか?
久世さんは、半生に思いを巡らせるように一呼吸おき、「自分がやりたいことは、全部やったね」とひと言。さらに孫に視線を落としながらこう続けた。
「子どもたちがそれを受け継ぐかどうか、この地で生涯暮らしていくべきかどうか、さらにこの孫たちに引き継ぐべきかどうか。自分は何も言うつもりはないよ。これまでのように、なにもかも、子どもたちが自分で決めていけばいいんだよ」

そしてにっこり笑い「だって僕のではなく、子供の人生なんだから」

取材・文 山本 公紀

写真 亀谷 光

工房レティエ
北海道天塩郡豊富町福永
TEL & FAX:0162-82-1300
http://page.freett.com/koubouletie/
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